01入った人たち
1890 年、9 つの県から 440 戸。
厚岸町の太田は、屯田兵が拓いた土地です。屯田兵は、ふだんは畑を拓き、いざというときは兵隊になる人たちでした。
厚岸町のページによると、1890 年(明治 23 年)、北の海の守りと開拓のために、440 戸が本州から太田へ入りました。山形、福井、石川など、9 つの県から応募した士族の人たちです。厚岸町は、町の農業が本格的に始まったのはこのときだと書いています。
士族の屯田兵の入植は、この年で終わりました。太田は、その最後の年の村の一つです。
02家
兵屋は 17.5 坪。建てたのは、標茶の囚人たち。
440 戸が暮らす家(兵屋)は、人が入る前に用意されました。1889 年 1 月から翌年 5 月にかけて、標茶にあった集治監(いまの刑務所にあたる施設)の囚人たちが建てています。
一軒は 17.5 坪、約 58 平方メートルの木造の平屋です。土間と、6 畳と 4 畳半の二つの部屋、居間、台所、押入、便所がありました。居間にはいろりがあり、屋根に煙を出す口がついています。
太田の兵屋には、特徴が一つあります。道をはさんで向かい合う家の間取りが、鏡に映したように逆になっているのです。こうすると、どちらの家も入口が道の近くに来ます。「裏返し型」と呼ばれる建て方で、北海道でも数か所にしか例がありません。
このうちの一軒(119 番)は、制度が終わったあとも住まいとして使われ、1971 年に元の形に直されて町に贈られました。いまも当時と同じ場所に建っています。
03そのあと
畑から、牛へ。
| 年 | できごと(厚岸町の年表から) |
|---|---|
| 1890 年 | 太田村ができる。9 つの県の士族 440 戸が、屯田兵として入る。 |
| 1891 年 | 太田郵便局が開く。 |
| 1894 年 | 日清戦争。太田の屯田兵は東京で待機し、戦争が終わって村へ帰る。 |
| 1904 年 | 日露戦争。太田から 184 人が出て、38 人が亡くなる。この年、屯田兵の制度が終わる。 |
| 1948 年 | 太田村主畜農業協同組合ができる(いまの釧路太田農業協同組合)。 |
| 1955 年 | 太田村の南半分が厚岸町に、北半分が標茶町に入る。 |
| 1967 年 | 太田屯田兵屋などが、厚岸町の文化財になる。 |
| 1974 年 | 太田屯田兵屋が、北海道の有形文化財になる。 |
| 1990 年 | 屯田兵が入って 100 年を迎える。 |
屯田兵の制度は、1904 年(明治 37 年)に終わります。この年は日露戦争の年で、太田からは 184 人が戦地へ向かい、38 人が亡くなりました。
そのあとの農業について、厚岸町のページはこう書いています。涼しい気候や、土の性質など、自然の条件が厳しかったので、いちばん安定している酪農へ切り替えていった、と。戦後の 1949 年ごろからは、新しく 194 戸が入っています。
太田村は、1955 年に二つに分かれました。南半分が厚岸町に、北半分が標茶町に入っています。屯田兵の村から始まった農協は、いまも「釧路太田」の名前で続いています。
この土地の酪農がいまどのくらいの大きさになったかは、酪農の読みものに書きました。
- 1890 年、9 つの県の士族 440 戸が、屯田兵として厚岸の太田に入った。
- 兵屋は 17.5 坪。標茶の集治監の囚人たちが建てた。
- 向かい合う家の間取りを逆にする「裏返し型」は、北海道でも数か所だけ。
- 屯田兵の制度は 1904 年に終わり、農業はのちに酪農へ切り替わった。
出どころ:厚岸町のページ「太田屯田兵屋」(厚岸町の文化財)、厚岸町太田屯田開拓記念館「太田の歴史」、厚岸町「産業統計 農業」。このページの最終更新:2026 年 10 月 14 日。