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幣舞橋は、五代目。その前に、民間の橋があった。

渡し船の時代から、いまの四つの像の橋まで。北海道開発局の資料で、釧路川の橋の 130 年あまりをたどります。石川啄木が渡った橋のことも。

01橋の前

橋ができる前は、渡し船で 1 銭。

釧路川は、江戸時代から、人と荷物を運ぶ大きな道でした。けれども、川を越えるには渡し船に乗るしかありませんでした。北海道開発局のページによると、料金は 1874 年(明治 7 年)に人が 1 銭、牛や馬が 2 銭。7 年後には、人が 3 銭、牛や馬が 6 銭に上がっています。

最初の橋を架けたのは、役所ではなく、名古屋に本社のある会社でした。1889 年(明治 22 年)、自分のお金で木の橋を架け、渡る人から料金を取りました。会社の名前から「愛北橋」と呼ばれます。長さ 216 メートル、幅 3.6 メートル。当時の北海道でいちばん大きな橋でした。

この橋は、9 年で壊れます。釧路川は、また渡し船に戻りました。

02木の橋

木の橋は、9 年、6 年、9 年で架け替えられた。

橋使われた年年数長さ(m)幅(m)つくり
愛北橋(民間の有料の橋)1889〜1898 年9 年2163.6木
初代 幣舞橋1900〜1909 年9 年2034.2木
二代目1909〜1915 年6 年2034.5木
三代目1915〜1924 年9 年2017.2木
四代目1928〜1975 年47 年11318.3鉄筋コンクリート
五代目(いまの橋)1977 年〜

北海道開発局 釧路開発建設部「幣舞橋ライブラリー」から。いまの橋について、同じ開発局の別のページは「昭和 51 年(1976 年)に建設」と書いています。

1900 年(明治 33 年)、こんどは役所が橋を架け、土地の名前を取って「幣舞橋(ぬさまいばし)」と名づけました。釧路が町になった年です。

けれども木の橋は、長くもちませんでした。雪どけの水で上流から流れてくる木、冬に川に張る氷、海から入ってくる流氷。これらがぶつかって、初代は 9 年、二代目は 6 年で壊れています。三代目は幅が 7.2 メートルと広くなりましたが、やはり 9 年で役目を終えました。

「幣舞」という名前は、アイヌ語の「ヌサ・オ・マイ」から来たという説があります。神をまつるための木の飾りを立てて並べ、儀式をする場所、という意味です。

03四代目

47 年もった橋。戦争も、津波もくぐった。

四代目は、はじめての「壊れない橋」として、約 4 年をかけて造られ、1928 年(昭和 3 年)にできあがりました。北海道ではじめて鉄筋コンクリートを使った橋です。両岸を埋め立てたので、長さは 113 メートルと、前の半分ほどになりました。幅は 18.3 メートルで、三代目の 2.5 倍。歩く所と車の通る所が、はじめて分けられました。

ゆるやかな弧を描く、ヨーロッパ風の形でした。札幌の豊平橋、旭川の旭橋と並んで「北海道三大名橋」と呼ばれます。もっとも、開発局の別のページは、この三つを「誰がいつ決めたのかは分かりません」と正直に書いています。

この橋は、47 年使われました。そのあいだに、戦争でアメリカ軍の飛行機に撃たれて鉄骨が穴だらけになり、橋のたもとの柱も吹き飛ばされました。1952 年には、十勝沖地震の津波にも襲われています。それでも、そのあと 20 年以上もちました。

1952 年の地震のことは、「この土地の、地震と津波の記録」に書きました。

04いまの橋

四つの像が立つ、五代目。

いまの橋は五代目で、1977 年(昭和 52 年)からのものです。前の橋が 50 年たって古くなったことと、朝夕の車の混雑をやわらげることが、架け替えの理由でした。

形は、市民も加わって話し合って決めました。たもとの柱や弧の形に、四代目の面影を残しています。欄干の模様は、釧路市の彫刻家がハマナスをもとに作りました。

橋の上には、四人の彫刻家が作った四つの像が立っています。「春」は船越保武、「夏」は佐藤忠良、「秋」は柳原義達、「冬」は本郷新。合わせて「道東の四季」と呼ばれます。

開発局のページは、この橋の眺めについて、霧に包まれた橋の影と街灯が浮かぶ光景はとても幻想的で、夕日の美しさも格別だ、と書いています。

05啄木

石川啄木が渡ったのは、壊れる直前の初代の橋。

歌人の石川啄木(1886〜1912 年)は、1908 年(明治 41 年)、小樽から釧路の新聞社に招かれて、この町に来ました。真冬の駅に降り立ち、下宿へ向かう途中で幣舞橋を渡っています。開発局のページによると、それは壊れる直前の、初代の橋でした。初代が倒れたのは、その翌年です。

啄木が釧路にいたのは、3 か月足らずでした。国立国会図書館の紹介によると、同じ 1908 年のうちに東京へ出て、翌年に新聞社に勤め、1910 年に歌集『一握の砂』を出しています。

当時の釧路の新聞のコラムに、傾きかけた幣舞橋を詠んだ詩が載りました。開発局のページは、これを啄木の作ではないかと言われている、と紹介しています。確かなことは分かっていない、という書き方です。

橋は、そのあとも文学や歌に出てきます。1910 年には作家の徳富蘆花が二代目の橋を渡り、随筆に書きました。釧路出身の作家、原田康子の『挽歌』の舞台にもなっています。昭和 40 年代には、霧と北国と港町がそろった場所として、歌謡曲にもたびたび歌われました。

ここまでで言えること
  • 釧路川の最初の橋は 1889 年。名古屋の会社が自分のお金で架けた、有料の木の橋だった。
  • 木の橋は、流木や氷がぶつかって、9 年、9 年、6 年、9 年で架け替えられた。
  • 四代目(1928〜1975 年)は、北海道ではじめての鉄筋コンクリートの橋。47 年使われた。
  • いまの橋は五代目。四人の彫刻家による「道東の四季」の像が立つ。
  • 石川啄木が 1908 年に渡ったのは、壊れる直前の初代の橋だった。

出どころ:国土交通省 北海道開発局 釧路開発建設部「幣舞橋ライブラリー」、同局「人々を魅了し続けて 北海道三大名橋」、国立国会図書館「近代日本人の肖像 石川啄木」。釧路の夕日を「世界三大夕日」と呼ぶ言い方は広く知られていますが、いつ誰が言い出したかを確かめられる資料が手元に無いので、ここでは書いていません。このページの最終更新:2026 年 10 月 14 日。