01前田正名
次官を 4 か月で辞め、わらじで全国を歩いた人。
阿寒湖のまわりの森は、長いあいだ、一つの家が持ち、守ってきました。はじめの持ち主は、前田正名(まえだ まさな)という人です。ここでは、森を引き継いだ前田一歩園財団が公開している文章を読みます。
正名は 1850 年、薩摩藩の医者の家に、6 番目の男の子として生まれました。渡航のお金を作るために兄たちと英和の辞書を出し、1869 年(明治 2 年)、20 歳でフランスへ渡ります。向こうでは戦争とパリの包囲を経験し、役所の高官から農業や産業の政策を学びました。1877 年、役に立つ作物の種や苗をたくさん持って帰国します。
帰国してからは、政府の要職を務めました。1884 年には、地方に昔からある産業、とくに生糸やお茶を育てて国の力をつけようとする『興業意見』をまとめています。1890 年、41 歳で農商務省の次官になりますが、大臣と意見が合わず、4 か月あまりで辞めました。
そのあとの正名は、きゃはんにももひき、わらじ履き、みのを着て、小さな荷物とこうもり傘を持つ、という姿で全国を歩き、お茶や農業、養蚕など、地方の産業を盛んにする運動に一生をささげました。
02阿寒
「伐る山から、観る山に」。
正名は、口で説くだけでなく、自分でも手本になろうと、各地で農場や山林の事業を始めました。事業には、座右の銘の「物ごと万事に一歩が大切」から取って「一歩園」と名前をつけています。
阿寒はその一つです。1906 年(明治 39 年)、国の土地約 3,200 ヘクタールを牧場として借り受け、阿寒湖のほとりに事務所を置きました。牧場にするために、森を切り拓くところから始めています。
ところが、正名は湖のほとりの景色に深く心を動かされます。晩年、「この山は、伐る山から観る山にすべきである」と語ったと伝えられています。正名自身が阿寒湖を訪れたのは、1907 年と 1911 年の 2 回でした。
釧路との縁は、阿寒より前からあります。正名は釧路に製紙の会社を作りました。財団の文章は、これがいまの釧路の製紙業につながっていると書いています。作った年は、財団の年表では 1900 年(明治 33 年)、人物の紹介では明治 32 年となっていて、1 年のずれがあります。
03三代
家の財産を、すべて財団に。
| 年 | できごと(財団の年表から) |
|---|---|
| 1850 年 | 前田正名、薩摩藩の医者の家に生まれる。 |
| 1869 年 | フランスへ留学。1877 年に帰国。 |
| 1884 年 | 『興業意見』をまとめる。 |
| 1890 年 | 農商務省の次官になり、同じ年に辞める。 |
| 1906 年 | 約 3,200 ヘクタールの土地を借り受け、阿寒湖のほとりに事務所を置く。 |
| 1910 年 | 約 3,800 ヘクタールの土地を自分のものにする。 |
| 1934 年 | 森が、阿寒国立公園に入る。 |
| 1938 年 | 前田正次が 2 代目の園主になる。 |
| 1957 年 | 前田光子が 3 代目の園主になる。 |
| 1983 年 | 財団法人 前田一歩園財団ができる。 |
| 2012 年 | 一般財団法人に移る。 |
正名は 1921 年に亡くなります。阿寒への思いは、「前田家の財産はすべて公共の財産となす」という家の教えとともに、2 代目の正次、その妻で 3 代目の光子へ引き継がれました。森は、1934 年に阿寒国立公園に入っています。
光子は、暮らしの場を東京から阿寒へ移し、土地の人や職員と一緒に、森の世話を続けました。そして、阿寒の自然をあとの世代に残すために、一歩園を財団にすることに力を尽くします。
1983 年 4 月 1 日、前田一歩園財団ができ、前田家のすべての財産が財団に寄付されました。光子の言葉「自然は最高の師」も、財団が受け継いだものの一つとされています。
- 阿寒湖のまわりの森は、1906 年に前田正名が国から借り受けたところから始まる。
- 正名は「伐る山から観る山に」と語ったと伝えられている。
- 森は 1934 年に阿寒国立公園に入った。
- 1983 年、前田家のすべての財産が、前田一歩園財団に寄付された。
出どころ:一般財団法人 前田一歩園財団のページ「財団の成り立ち」「前田正名」。年と面積は、同じページに書かれているままです。このページの最終更新:2026 年 10 月 14 日。